佐倉前線北上中

しっとり自画自賛

ネタの「妥当性」とは何か

※自分自身も答えが出ていません。思考プロセスを解くために整理する文です。

※特定の動画に対して批評、批難するものではありません。

 

 

ネタの「妥当性」。自分の言葉だけで書いたがこれを具体的に言うと、「スベるネタとスベらないネタの境界はどこにあるか」ということである。

 

その中で「自分でもハッキリした理由が分からないが、嫌悪感を感じるスベるネタ」というのがある。これを詳しく分析して自分の生活や動画で同じ轍を踏まないようにするのが今回の目的である。

 

 

嫌悪感を感じるスベるネタ、はっきりと言ってしまおう。「直接の関係がない(内輪の)ネタを持ち出すこと」だ。

これには「妥当性」がない。もう少し踏み込んでみよう。

 

 

例えばニコニコ動画の大変な途中下車シリーズで、「登場した駅名と同名の有名人、キャラクターを一瞬出す」というネタがある。このキャラクターの選択に「妥当性」がないとスベる。

「川崎駅」に対して「コックカワサキ」を出すことには(おそらく)違和感がないだろうが、ここで「川崎真奈」というアイドルを出したらどうだろうか。ちなみに川崎真奈は架空の人物であるがそこは考慮しない。

ほぼ間違いなく「誰だよ」という反応が全員から得られるであろう。この選択には「妥当性」がないのだ。ゆえにスベる。

 

架空だからでは?という疑問もあるだろうがそうではない。実在の人物にしてみよう。動画内で「大島駅」が出ることに対して「大島優子」が出てきたとしたら?

反応は人によるだろうが「なんで?」というものが多数を占めるだろう。「なんで?w」と笑いにならなければそれはスベったことになる。

念のため補足しておくが、「なんで?」を繰り返すことによって発生する笑いも存在する。ただしより高度な技術の上に成り立つものであるため今回はあえて言及をしない。

 

 

さて、逆に「川崎駅」に対しての「コックカワサキ」は本当に「妥当性」があるものだろうか。なぜアイドルは受け入れられずにカワサキは受け入れられるのだろうか。

ズバリ言うとこれはニコニコ動画という「土俵」が出来上がっているからだ。それは則ち「フリが効いている」と言い換えることができる。

一から十まで説明するのはあまりにも冗長になるため結論だけ言うと、「ニコニコ動画星のカービィ、ないしはコックカワサキをネタにする文化があるため自然にそれを受け入れられる心構えが出来ている」こと。カワサキに限らずシナノフリーや松岡修造なども該当する。

 

ここで声を大にして言いたいのは「ネタは受け取る側が面白いと感じなければ意味がない」ということだ*1

 

音MADでも会話でもテンポが大事。相手に「?」と思わせ続けてしまえば全体の質が落ちてしまう。

 

そして最も相手の機嫌を損ねること。それは……

「お前、それ言いたいだけだろ」と思わせてしまうこと。

これが今回の「妥当性」及び「ネタの境界線」の結論になる。

 

「要は動画にそのアイドル出したいのってお前のエゴですよね?」って思われたらもう終了。まともな評価は得られなくなるでしょう。

勘違いしないでほしいのは「アイドルを出すな」とかじゃなくて、出すならそれ相応の理由付け、「妥当性」を見出してほしいということ。(音MADなら原曲に関連を持たせるとか?)

 

まあこんなこと言ってるけど私自身だって過去の動画とかを見返すとエゴが入ってたりして「うわぁ……」ってなってるし偉そうに言う権利はないんだけどね

 

これ強く言いすぎると自分自身を苦しめることになるし程々にしましょう。

 

 

まとめると、

・ネタを出すときは受け取り手になったときのことを考える

・自分"だけ"が楽しい「エゴ」を出さないようにする

この2点ですかね。とりあえず言語化できてよかったと思います。

 

 

とはいえなんか視聴者置いてけぼりの滅茶苦茶な音MADがウケたり、なんかもう開き直っちゃってる作品とかは逆に面白かったりするし笑いってわからんね

 

 

*1:音MADだと疾走感で誤魔化せたりする場合もあるが